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日々の気づき
誰もが経験をしたことのある面接の中でよくある質問「あなたの強みは?」。
その問いに対し、「人に寄り添うことが出来る」という回答が最近の私には物足りなく感じてきました。
なぜ物足りなくなってきたのか。
その理由を自分の中で噛み砕き、言葉にしてみることで、ちょっとだけ理解できた気がしたので、
今回はその想いに触れたブログをわたくし久保田が書くことにします。
「人に寄り添う事」
とても素晴らしい行動であることは間違いなく、誰もができることではありません。
人の見えない内面に心を配り、発した言葉に共感し賛同することで、相手は自信を持つことができ、心が軽くなる場合も多々あります。
私がメンバーに「寄り添う」と決める際、勝手に決めている3つの条件があります。
・その人の思想や行動が私の中で正しい、しっくりくると判断した場合
・その人がその行動を実行した期間が短く、まだ判断するには早いと感じた場合
・その行動や考えを継続した先に気づきがあるとイメージできた場合
このような場合は「寄り添う」ことを選択しています。
しかし時に、ついこの考えに陥ってしまうことがあります。
“今相手が発信していることは相手の頭の中に元々あったものであり、
せっかく私と接しているのであれば、相手の頭の中にはない事例を伝えることが、この時間の価値になるのではないのか…”と。
相手が求めていなくても相手の未来の事を少し先回りして考え、行動すること。
私の中で、この考えにピッタリとハマるワードがあります。
それが『お節介』いう言葉です。
『お節介』は良い意味で使用される印象はあまりない気がします。
・出しゃばって世話を焼く
・不必要に相手のことに立ち入る
など、相手が求めてもおらず、自分よがりだという意味を含んでいるからです。
しかし私はこの“相手が求めていない”という部分が重要だと感じております。
なぜなら、求めていない原因が「知識の無さ」からきていることが余りにも多いと感じるからです。
「求めていない」と思っていることが、「ただ知らないだけで、求める内容だということに気づいてすらいない」としたら、
まさしくこれは伝えるべきではないでしょうか?
人は自分の中ではじき出した答えだけで成長していく訳ではありません。
指摘されることを好んで受けに行く人は少ないですが、時には他人からの注意や言葉が、
人生や仕事にとって、とても大きなきっかけになる場合もあるはずです。
「寄り添う」という行動だけでは導き出せない可能性が『お節介』には秘められているのです。
ここからは私が『お節介』な行動をとる際に大事にしている2つの部分を紹介させていただきます。
まず1つ目は
【『お節介』ととらえるのは自分、相手には悟られない】ということです。
『お節介』とは受け取り手が相手の行動を判断し表現しているものであり、
この考えには矛盾が生じるのですが、敢えて自分だけに留める努力をすることを大事にしています。
そのおかげで相手への見せ方や話し方を考慮するようになり、相手への配慮が増すとこれまでの経験から確信しているからです。
2つ目は
【『お節介』は自身が行いたくて行っている】という考え方です。
先程もお伝えした通り、『お節介』とは相手が求めていないことに対し、自分が良いと思うから行うということが定義です。
私の場合は、この自分よがりで一方的な考えだからこそ謙虚な気持ちが生じてきます。
相手が希望通りの思考や行動にならなかったとしても、私が良いと思い、
一方的に行ったことで相手の事を責める・諦めるなどの悲観的な考えにはなりにくく、
いつか気づいてくれればと良いと伝え方を変えてみたり、時期をおいてみたりと次の行動に移りやすくなる手を打っています。
この2つを意識することにより、言葉のネガティブな要素の1つである「自己満足」で終わらせないように徹底しているのです。
大人になるにつれ、この『お節介』な感情はより強くなるといいます。
たしかに自分だけに精一杯だったころより、歳を重ね、経験を積んだ今の方が芽生えやすい感情だと思います。
より周りのことを考える余裕が出てきて、たくさんの人と関わる中で、
自分に何ができるだろうと一生懸命に考えることから生まれるものだからです。
さらに自身の力が強まるとこの関わりが一個人から会社、社会へとだんだんと気にかける範囲が広がり、
ついには社会貢献などに発展することもあります。
今この『お節介』が日本から減っていることからこの言葉に注目が集まっているとも言われています。
たしかに私が幼いとき、近所には『お節介』で素敵な大人がたくさんいました。
友達のお父さんやお母さん、近所のおじさんやおばさん、商店街のお店の方々など…
それだけの人が他人である私を気にかけ、本気で向き合いぶつかってくれていたことは今思い返せば貴重だと感じます。
そしてありがたいことに私の周りには今でもお節介な人がたくさんいてくれています。
そのおかげで今でも私は成長させてもらえているのです。
私自身、人にも社会に対してもそんな存在でい続けたいという想いをMad.を通じて体現していけたらと思います。
少し私の思想的な話になってしまいましたが最後までお付き合いいただきありがとうございました。